女を目にした瞬間から男は異常なまでにひきつけられた。身体ごと持っていかれるようでありながら、それは必ずしも性的な欲望ではなかった。物理的でないものを媒介した物理的な力、とでも言うのだろうか。通常それ自体として意識されることのない重力や引力の存在に不意に気づかされ、いきなり襲いかかられるようなものだった。それも数倍もの力で。
二人が初めて会った日、女はドローイングブックを取り出して一枚の小さな絵を男に見せた。その可憐な水彩画は木陰のベンチに座るランドセルの男の子と女の子を背後から覗くように描いていた。少女は膝の上に開いた本のページを指さしながら何かを伝えている。少年の方は見入り聞き入っている様子だ。さっき仕上げたばかりの絵です、と女は言った。そして二人は会うようになった。
But Terry and Julie cross over the river
Where they feel safe and sound
その夜、二人は小さな部屋のローベッドのへりに座っている。剥き出しのフローリングの床には何冊かの画集のページが開かれている。いずれの作品もロンドンやその近郊の情景を幻想的に描き、鑑賞する者を氣の中に吸い込むようだ。男と女はそれを眺めながら酒を飲んでいる。A Shower…Rain, Steam and Speed…Waterloo Bridge…
「試し行為」女は言った。
「試し行為」男は繰り返した。
「突き放すようなことを言って。どれだけわたしのことを好きか確かめている」
「いいよ。飲んだね」
「まだいっぱい飲む」
「どうしてそんなに飲むの」
「あなたに言われたくないな」
「まあね」
「寿命を縮めるためですよ」
「そんな量ではだめだな」
「生き証人ですからね」
「その通り。そしてまだ生きるみたいだ」
と言って男はウィスキーを飲んだ。女も飲んだ。
「生きることは他の誰かがしてくれるから」女は言った。
「それは間違いない」
「死んじゃいたい」女は唐突に言って床を見つめた。しかし絵を見ていたのかもしれない。何を見ていたのか男にはわからなかった。
「どうして」男は一人でつぶやくように言った。「どんな時に死にたくなるわけ」
「ガスコンロの拭き掃除をしているとき」少し考えてから女は続けた。
「お風呂の排水溝掃除をしているとき。七本入りの棒アイスを食べているとき」
「歯磨きもふと地獄、みたいなことか」
「同じところをぐるぐる回っている感じ」
「うん」
「それから、明日が来ること。人生に起伏がないから。余計に辛い気がする」
「それが幸せというものらしいよ」
「死んで幸せになりたい」
「それも幸せというものかもしれない」
「死んだ後の幸せを知らないから、今の幸せが気に入らないだけかも」
そう言って女は一枚の絵を見つめた。つられて男も同じ絵を見ていた。
「じゃあ死んでみようか」と言って男は女を見た。
「どうやって」
「さあ」
「どうせ死ねないから」
「いい死に方を考えてみよう。まだ夜は長い」
「飲んで死にましょうか」
「いつものように」
男と女は理想的な死の有様や善き逝き方について思うところを交換していた。つい最近のゴダールのこと。自死を選んだ数々の作家や芸術家たちのこと。やがて二人は生きているのか死んでいるのか気にもならないしもうわからないところまで酔うことに成功していた。
「気持ちいい」女はベッドに寝そべって言った。黒猫のぬいぐるみを胸に抱えていた。
「気持ち いいね」男は女の無垢さに胸を痛めながら同意した。
「死ぬってこういうことかな」
「こういうことでもあるかもしれないね」
「このまま死んじゃいたい」
As long as they gaze on Waterloo sunset
They are in Paradise
「あのモネの橋から飛び降りるのはどうかな」男は言った。その夜、頭の中に流れていたような歌の知らせだった。
「それは悪くないかも」
「きれいな淡い夕暮れにさ」
「死ぬ前からもう天国みたい」
「そういうこと」
男は女の手を取って立ち上がり、部屋の端のソファへ連れていった。男はその灰色の固いソファの上に立ち、それから女も引っ張るようにして立たせた。
「というわけで、ウォータールー橋の欄干に登りました」男は言った。女がふらりと倒れそうになり男は抱きしめた。そのままで二人は笑った。
「目を閉じて想像して。あの霧と大気。青か緑か紫か。どんどん身体が染まっていく。息を吸ったら内まで染み込んでくる。そしてあの日没の光があたたかく顔を撫でている。川面を金色に撫でている」
女は目を閉じていた。
「いい感じかな」男は訊いた。
「うん」
男は女の手を握った。握られた。
「では」
「はい」
「せーの」
Waterloo sunset's fine
歌詞引用: "Waterloo Sunset" The Kinks
