傘を忘れた。青い日差しは夕方、唐突に豪雨へ。同僚が傘を貸してくれた。女はデスクの後ろのパーテーションに、いつも三本の傘をかけていた。一本はビニールに縫われたような白い花柄。別の一本は黄色と水色に明るく輝き、スペインの聖堂のステンドグラスを思わせた。女が貸してくれたのは、淡い虹色に瞬くオーロラのようなビニール傘だった。男がさすには、それが一番ましだった。最後に残った二人で事務所の鍵を閉め、ビルの玄関で止まない雨に立ち止まった。男がオーロラの傘をさすと、女は声を出して笑った。
「ちょっと交換して」女は言った。
「どうして」
女はオーロラの傘を肩に乗せ、ふって見せた。美しすぎて、男は笑い、手渡された傘を持ち上げ、女の傘でしかないような花模様を観察した。
「普通だな。そっちの方がいい」
傘をもう一度交換して、雨粒で隠れるような手を上げ合い、別れた。歩き始めると雨は急速に弱まって嘘のように止んだ。
久しぶりに、酒のせいで、仕事にならない一日だった。ロンドンパブに入り、ギネスと日本製のビールのハーフハーフ、ハーフサイズ。半半々人前の酒、と力なく笑った。バーテンダーの女は付き合ってくれた。傘をなくすわけにはいかないから。今日はこれでおしまい。
エレベーターでオーロラを見つめ、懺悔しながらフロアに出た。なぜか部屋のドアが開かなかった。カードキーは反応していた。どれだけ引っ張っても開かない。U字ロックのドアチェーンが歪に引っかかったのかもしれない、酔って部屋を出たから。レスキューを呼んだ。到着した若い男は、逞しい消防隊員のようだった。14階につき、青年は重い工具入れをどさりと置き、ドアノブを引いた。開いた。
彼はオーロラの傘を見た。そしておれを見た。
「今日、僕、誕生日なんです。お客さんが、誕生日で最初のお客さんです」
浅黒い顔は微笑んだ。
すぐに言葉が出なかった。
「そうなの。おめでとうございます」
どう見てもおかしな男ではなかった。受け答えも誠実でまともだった。
「来てもらったのに申し訳ない」
出張料金は七千円だった。一万円を渡してお釣りはプレゼントした。つけっぱなしの換気扇と窓から入る風の気圧の関係で、ドアが開きづらくなることが、極々稀に、そして一時的に、あることを教えてくれた。部屋に戻ってすぐに寝た。
無 数の蝋燭がゆらめく部屋。素肌の背中しか見えない女は、一本一本、指で火を消していった。何も見えなくなり、目が覚めた。休日で、酒の痕跡はさっぱりと消えていた。煙草を吸いながら、玄関ドアのフックにかかるオーロラの傘を見ていた。以前から気になっていたあの指輪が必要だった。
その1967年製の指輪の、古く青い石は金色の円環に輝き、卒業の光を顔面に照らした。十代のような店員の女は、指輪を付けた男の手を両手に取り、甲に口づけした。その自然さに驚きは通り過ぎた。しかし少女は横を向いて目を伏せていた。ありがとう、と言って店を出た。
おそらく書けないような、大きな期待を知り、慄いた。焦らなくていい、と日記の文字は揺れた。誰かがおれを殴るために素振りをしたが、全く届かない。ラッキーパンチはラッキーである。
May God bless and keep you always
May your wishes all come true
May you always do for others
And let others do for you
不意に怒りの季節は過ぎ、ズッキーニ、ゴーヤ、キャベツ、鯖切身、炒める夏の夜に、サイズが合っていないから、小指に。勝利とはそういうものだろう。冷えたシャブリを開け、遅れ続ける感謝の予感を口ずさんでいた。
歌詞引用:Forever Young / Bob Dylan & The Band
