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感傷なく、教養なく、月は輝く

8月10日

「あの人好きする感じは、犠牲の上に成り立っていた、という気がします」 取引先の消えた男のことを思い出し、仕事帰りのノースリーブの美容部員の女は言った。

「思いやりに溢れている人。理不尽すぎる」 女はそう続けて、濃いめの大きなハイボールを飲んだ。

酔った男は冷奴を摘み、仕上げの瓶ビールをグラスに注いだ。

「人に褒められる顔より、自分で褒められる顔の方がしあわせ、とか」

男が言い終える前に、カウンターの仕切り越しに、大きな松明の炎が上がった。

偶然そこに居合わせただけの男と女は、同時に身を引いていた。

「びっくりした。でも、本当にそう。それもわたしの仕事ですね」


店を出た。女が湿った夏の夜空を見上げた。

「すごい。大きくて、オレンジだ」

見たことがないような三日月が浮かんでいた。二人は見入った。

「不条理を知れば知るほど、三日月は吉兆として現れる」男は、右手の人差し指を、女の頭の上の虚空に刺していた。

「誰が言ったの」女が訊いた。

「おれ。多分」

「降ってきたんだ」


Oh dream maker You heart breaker Wherever you're going I'm going your way


「こんなに飲んだの久しぶり」女は言った。

「飲んだね。強いね」

「酒飲みに悪い人はいないって。いつもお爺ちゃんが言ってました」九州生まれ、東京育ちの女は微笑んだ。「確かに」男にも納得できるようだった。別々の駅を目指して別れた。


駅のトイレで、巨人のユニフォームを着た小さな男の子がパンツを足首まで下げ、お腹を出して、放尿した。そのちょぼくてきれいなちんちんを、全ての女が見るべきではないか。一度目にすれば、誰もが母親となり、無防備なかわいい青年に薬を盛ったりしなくなるだろう。


身震い。しかし現在を制するものは、過去を制する、誰かが言ったように。


ボックス席が空いていた。瞬時に車両は満員になった。スマホを見ると、イギリス人の批評家兼詩人、学者が、モリッシーに関する頓珍漢な性格分析を披露して、さらに詩人でさえない、と盛大に侮っていた。


...........どこの誰が、この類まれなる表現者を消して、別のW・H・オーデンを望むだろう。例えば、真に音楽家であるマイルスの弟子たちは、彼を思い出して瞳を濡らす。形式を創り出したからではなく、独自でリアルな人間だったからだ。表現の独自性は形式に宿らず、人間のリアルさの強度にある。そして、本質的なコミュニケーションが起こる瞬間は、MBTIでも何でもない。それなら占いの方がいい...........


一旦メモを閉じた。向かいの席に倒れるような、つなぎの作業着を着た、蛸のように赤いお爺さんが、こちらに両手を伸ばし、指をわなわな震わせた。薄目が開くようだったから、レモンサワーの缶が欲しかったのか、心境は知れなかった。あるいは、リアルな人間はそうそういないから、呑み足りなかったのかもしれない。老人はやがて寝息を立てた。先に降りる駅に着いた。


歌詞引用:

Moon River (Sung by Morrissey)

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