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善美は彼方──使者の追憶に

5月2日

初恋同士の二人の後ろ姿に嫉妬する夢から覚めたら一瞬の疼きはどこかへ。嫉妬したんだ。起き上がる前に、女に送ったメッセージの送信を取り消した。レンタカーをキャンセルした。換気扇を回して煙草を三本吸った。そうして人生を中止し続けていれば、もう明日のように終わるだろう。冷えていた白ワインを開けて飲んだ。


数ヶ月ぶりにギターをケースから取り出す、その衝動は喉の渇きに似ている。ベッドで一通りビートルズとバッハを繰り、抗いようのない肉体の揺れをスマホに記録した。空いた酒瓶を一掃し、今一度、誓いを立てた。冷蔵庫は何もかも切らしているようで、買い物に出た。商店街で特売の野菜を漁った。流石に80円の最後のほうれん草をおばあちゃんに譲った。


帰り道の映画館で久々に立ち止まった。カラックスの新作を上映していた。次の回まで30分しかなかった。坂道を駆け上がり、荷物を玄関に置いて急いで戻るはずが、気がついたらベッドに横たわるギターを抱えて歌っていた。


Yes I'm in love who looks at you the way I do


14階のベランダにカラスが止まった。この部屋に住んだ二年間で、そんなことは初めてだった。艶めかしい織物に窪む黒いビー玉が、酔いの泥に濁った男の瞳を見つめた。鳥は何かを鳴き、カンッカンッ、と手すりでステップを踏んで夕空に向き直り、不要なまでに大袈裟な右足の一蹴りに飛び立った。


映画の冒頭はそのカラスと同じ鳴き声で始まってしまった。IT'S NOT ME IT'S NOT ME


人気のないような映画館を茫然と出て、子持ちこんにゃくと水菜のつんつん漬け。濃いめのハイボールをおかわりした。深酒の予感に辟易しながら高台の公園にある便所へ歩いた。便所の入り口はなぜか木板で塞がれていた。走り過ぎる電車に無音の川が流れた。深い接吻を優しく拒むように、三日月の薄い唇がくっきりと浮かんでいた。夜空の頬にきれいなほくろが瞬いた。不揃いに切られた木株たちが、仏的な七人の小人のように佇んでいた。感じ入って腰をかけたら、巨大な鯉のぼりの群れが風に揺れていた。そのぽかりと開いたお前たちの口にうんと安酒を注ぎ込んでぱんぱんにしてやる。青も赤も黄の魚も、ふいに萎びて静止した。探してみても、月は嘘のように消えていた。



100年後には全員死んでいるなら、床屋も美容院もユニクロも葬儀屋じゃないか。棺の数が全然足りない!絶望して草の上に身を投げ出した。小さな青いゾウがとことこ歩き走りで助けに来るのが見えた。ころころ糞をしながら。手前であと一歩止まりきれずに腹を踏まれた。


目覚めると、腹の上に腹を重ね、女がうつ伏せに突っ伏していた。

「え」

「おはよ」女は動かずに言った。

「どうやって入ったわけ」

「どうしてメッセージを消したわけ」

「ああ」

「半ドアみたいに空いてたよ、玄関」

記憶が曖昧だった。帰ってワインを飲んで気を失った、だから今女が起き上がった。

「飲み過ぎ」女は並んだ瓶を見て言った。

「そうだね」

カーテンから漏れる日は弱かった。 

「小さな男の子がエントランスを開けてくれた。その子ね、ランドセルを置いて入口の壁にもたれてたの。難しそうな本を読んで。こんにちはって挨拶して、エレベーターのボタンを押して先に入れてくれたんだよ」

知っている子だった。

「わかった。水をお願い」

へそを出した女がグラスに水を注いで戻った。一息に飲み干した。見つめる女の長い睫毛が扇風機の風を受けて揺れた。

「また河合優美の映画観てたんだ」白い壁に映ったスクリーンを背に女が言った。

「つけてるだけ」

女優に恋をしてジャンプして小躍りして宙をパンチしたことは言わなかった。そんなことをするのはルビッチ映画を観た時だけだった。

「好きすぎじゃん」真顔で女はベッドに入ってきた。“酒を飲んだ” のだ。飲んだ。しかし最悪の気分というわけではなかった。

「完全に手の届かない恋ほど、清々しく自由なものはない」

ブランケットを払って立ち上がり、女の細い脚を跨いでキッチンにふらついた。半月のスイカを冷蔵庫から取り出した。冷えすぎて肉の端が軽く凍っていた。一口齧ったら甘いシャーベットで美味かった。女がギターの弦を撫でた。果実の硬い皮を割き、皿に盛って女に与えた。

「スイカだ」

「商店街の青果店に出てた」

ふくよかな唇に汁が垂れた。その横顔は完璧や完璧の模倣から離れていたから揺さぶった。

「五月のスイカってこんなに美味しいんだ」

「ほんとうに」

顔を洗って歯を磨いた。意外に一度もえずかなかった。寝床に戻り、すでに恐ろしいくらいの夏の果実の香りに包まれて寝た。

「中でいけたの初めて」女が言った。罪も悪意もない嘘に黙っていた。

「スイカ。清々しく自由」ずっと後の女の声は言葉に違わず爽やかだった。

「うん」

「わたし、バイオリンを弾きたい」水色のカットソーにくぐもった声が聞こえた。

「バイオリン」

「子どもの頃に習ってたの」

「弾けるんだ」

「覚えてないけど。欲しいな」

「昔のやつは」

「子ども用でサイズが小さい。どこで買えばいい」

「近くにあるよ。明日なら一緒に見に行ける」

「今すぐ欲しい。仕事の前に行く」

「いきなりどうしたの」

「そういうところあるんだわたし」

弦楽器を専門に取り扱っている楽器店の名前と住所を女に教えた。初心者からプロまで面倒を見ている老舗だった。飛び込みで入っても親切に対応してくれることがわかっていた。

「バイオリンを抱えて職場に行ったら、びっくりするだろうな」

五月の花の匂いを振りまき、女は踊り回ってバイオリンを奏でた。

「何を弾くの」男は訊いた。

「わかんない。とにかく弾きたい」

「店の人が全部教えてくれるよ」

女は床に横たわる美しいスペイン製のギターを見つめていた。

「弾いてよ」

『月の光』でもよかった。何でもよかった。でも弾けなかった。一瞬、スマホの録音を再生するか迷ってやめた。何が与えられるだろう。

「また今度ね」

「いつか伴奏してくれる」

「バイオリンの」

「うん」

「いいよ」

「やったね」女は笑った。「ドア、ちゃんと閉めなよ」


そう言い残してバイオリンを探しに消えた女は二度と戻らなかったから、この原稿をたたんでポケットに入れた。



歌詞引用:This Guy's in Love / Burt Bacharach, Hal David (Sung by Noel Gallagher)

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